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2007年8月

2007年8月31日 (金)

がんばりやさんのフィッシングレディを見た

 今、フライフィッシングの好きな人々の間で人気沸騰中の女性のブログがあります。「華麗なるフライフィッシングレディ!」という名です。この4月に失恋を契機に突然「フライフィッシングをやる!」と決めて約5ヶ月あまり、試行錯誤のトレーニングの末8月末に独り立ちをして渓流へ旅立ちました。その間の失敗、悩み、練習をこまごまとブログにUPしています。現代風ではありますが、進歩の展開を見事な文章力と表現力で読む人を笑いとともにその健気さにほろりとさせます。

 私も含めて世の中のFFおじさん達が寄ってたかって「あーだ、こーだ、ああしろ、こうしろ」と沢山コメントがついています。ゴルフと釣りは教え魔が沢山出る双璧ではありますが。

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 ブログについていた釣行写真を勝手にスケッチにしてしまいました。

ヤマメたち 「おい、なんだかいつもと違って美人釣り師がきたぞ、誰も遊んでやらないとみえて相当疲れてるみたいだぞ」 「おいらがちょこっと出てみるかな」 「やめとけ、おまえのそういうお気楽が命を短くするんだぞ」 

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2007年8月29日 (水)

夏が過ぎ秋が来て、少年時代、宮城県色麻町

暑い暑いと言っているうちに秋が来ました。あと1ヶ月で稲刈りが始まり、終わると収穫祭の季節になります。

いつもの鳴瀬川へ行く時に通る県道沿いにある萱葺きの農家です。色麻町(しかままち)の広大な水田地帯の西部の集落にあります、威風堂々たるたたずまいで集落を代表する風景を作っています。しっかり現役で使われており、深い屋敷林を背に普通の家の3階建てに相当する大きな屋根、外に独立した風呂場は入母屋造りの瓦葺き、石造りの蔵などなど見事です。集落内には県立農業高校もありこのあたりが地区の中心だったようです。

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田舎で少年時代を過ごしたおじさんたちにはこんな夏の思い出があるかもしれません。

東京(都会)からいとこの女の子(だいたいかわいく見える)がお盆に泊まりにきた→ 張り切る、いいとこ見せたい → とは言っても田んぼしかない → では水路で魚とり。 

「おにいちゃん、この怪獣みたいなのなに、赤いの、こわいなあ」、 「こいつはザリガニだ、たんぼに穴開ける悪いやつだ」 「退治するぞ!」、 「わあ、おにいちゃんすごーい・・・・(瞳の中に星がふたつみっつ)」

 

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2007年8月26日 (日)

おとり鮎の不幸、おらこんなのやんだ

 今は夏の鮎釣りシーズンのピークです。私は鮎釣りには手を出していません、これはどうも身体に良くない釣りです。頭上からは30℃オーバーの太陽直射、腰から下は冷たい水の中。知り合いがこの釣りにハマって 「いやあ、こんな面白い釣りはしたことない、でも鮎が2ヶ月で終わりでよかった、これが4ヶ月も続いたら身体が壊れる」。釣った鮎を頂くのは大好きですが。

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 おとり鮎の鼻にわっかを通してかけ針をつけて、ほかの鮎の縄張りに送り込むと、「邪魔だ!出て行け!」と体当たりをしてきます。それをひっかける釣りです。

 おとり鮎 「なんでおらの鼻の穴にこんなわっか通しよるんだべ、痛えなあ、あっちこっちさ引っ張らってやー、あらら、でかいやつが怒ってこっちさ来る。もうおらこんなのやんだ。えれえ迷惑だど。」

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2007年8月25日 (土)

こんな釣り人いいなあ、英国スペイ川

 今日は日差しが強すぎるので釣りはやめにしてアームチェア・フィッシャーマンを決め込んでいます。ある酒の本の中にスペイ川のほとりでの、見事ないでたちの英国の釣り人の写真を見ました。こんな雰囲気で釣りをしたいものです。棒を持っていますが深いところに立ちこんだり渡るときの支え杖です。最近私も危なっかしいので欲しくなりました。

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 英国のスコットランドにハイランドと呼ばれる地方があります。ここはその中央をスペイ川が流れスコッチウイスキーの聖地とも呼ばれる地方です。この川沿いの工場で作られるウイスキーは特別にスペイサイドモルトと呼ばれます。最近人気のザ、マッカランもここです。しばらく前に飲んだ25年ものは旨かった、空き瓶が残っています。最近は手に入らなくなりました。

 このスペイ川は英国のサーモン釣りの聖地でもあります。英国のサーモンはカナダやアラスカの西海岸のとは異なるアトランテイックサーモンです。ダブルハンドの剛竿を振るキャステイングのスペイキャストの発祥の地です。

 かの地では大部分の川は日本のように自由に釣れることはなく、川を含む土地が個人所有でありガイドを雇うか、地主に許可を貰うことなしには釣れません。開高健師のビデオ「スコットランド紀行」に元英国首相のヒューム卿の招待を受け、彼のお城の中の川で釣りをさせてもらうのがあります。もともと貴族の遊びから始まったフライフィッシングであり川も彼等貴族の所有物で、庶民が勝手に釣りをすることはできませんでした。今ではそんなこともなくなりましたが、この写真の人、その風貌から見てそれなりの身分の人でしょう(犬も)。

わが地方の渓流に行くと、どこの山こじきかと思わせるような古汚いおやじが出没し、人の前に入り込むのも勝手放題、魚は大小問わず持ち帰る。文化の差なんでしょう。

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2007年8月23日 (木)

250年かけた運河開削、仙台藩

   とても気の長い土木工事が仙台藩時代から明治にかけてで行われました、約250年にわたって掘り続けられた「貞山堀(ていざんぼり」です。延長60kmにわたり北上川と阿武隈川という東北1,2の大河を内陸で結んだものです。工事を命じたのは藩祖伊達政宗(15671636)、彼が晩年の頃と伝えられていますから1630年頃の着工でしょう。仙台藩の年貢米を安全に城下へ運ぼうという目的で仙台湾沿いの海岸に沿って開削されました。完成は明治20年(1886)です。明治時代の工事は救荒事業として行われました、しかし残念ながら全航路が完成したときにはその役割は終わっていました。一部分が仙台新港開削の際になくなってしまっていますがそのほかの航路は昔と変らず水を湛えています。

 堤防沿いには自転車専用道が設けられサイクリングが楽しめます。現在ここを使う舟運はなくなりましたが厚い黒松の防潮林に守られ、江戸時代から変らない風景が続きます。

 司馬遼太郎が「街道をゆく」の中で、「これだけの歴史遺産をだまって保護してきた宮城県はたいしたものだ」と誉めています。貞山というのは伊達政宗の法名です、最後の区間が完成した時に貞山堀と命名されました。

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 この区間は、一番始めに開削され完成した区間の岩沼(いわぬま)市内です。仙台市の名取川河口と岩沼市の阿武隈川河口間16kmを結んでいます。竣工時期は確認していませんが、第2工区の仙台市内の分8kmが1673年に開通していますから着工後20年くらいかなと思います。これからの季節はハゼ釣りで賑わいます。

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2007年8月20日 (月)

ぼけたかな! ずぶぬれ、やれやれ

仙台では18日は突然気温が下がりなんと25℃、曇り空。絶好の釣り日和、せっかくの神様のご配慮、出かけない訳にはいかんだろー、ということで20日ぶりで(午後から)宮城県の鳴瀬川やその上流の筒砂子川に行って見ました。いやあ考えることはみな同じで釣り人がいることいること!。しょうがないのでどんどん霧が巻く上流へ行きこのあたりならよかろーと藪をこいで川へ、ずるっとすべって近くの枝をつかんだらこれがタラの木、痛え!と離してずりずり滑り落ちて川面まで。幸いウエーダーには穴が開かなったみたいでした。

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どーれ、行くかということで、夏用の昆虫毛ばりを結んでキャスト開始、ぜーんぜんイワナもヤマメも出てくる気配もない。やっぱり昨日まで35℃だったからなと思いながら上流へ、でもノーバイト。

1時間もしないうちドシャッという感じで雨が落ちてきて、あわてて斜面を這い上がり、汗まみれのずぶぬれで車へ戻って本日これまで。車のところで気がつきました、レインパーカが背中のポケットに入ってた!。ついに定年釣り師ぼけたか!いやいや暑さのせいであります。

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2007年8月19日 (日)

奇跡の宿場町、会津、下郷町大内宿ーⅢ

 前々回のモノクロスケッチに着彩しました。夏の観光シーズンで人の数も多く賑わっていました。突き当りの家は前に訪れた特は廃屋寸前でしたが見事に蘇っていました。

突き当たりの家の左側の家だけが向きが90度違います。想像するに、右側から来る(会津」若松城下からの旅人を監視する役割を持っていたのでしょう。調査によると江戸時代から明治にかけて作られた建物が31戸、屋敷割りの数は48、突き当りの家は、本陣(その後再建)を取り壊した材を使用して再建されたとのことです。家々は全て○○屋という屋号を持ちお互いを呼ぶ時もそれで言い交わしているそうです。戊辰戦争の激戦地でありながら焼き討ちを免れたのはここだけです。当時の名主の阿部大五郎という人の命をかけた行動により守られたと記録されています。

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98年8月9日の撮影です。前々回の74年9月のカラー写真とにたアングルです。なかなか統一は大変です。

会津は福島県ではありますが、独自の歴史と個性を持ち人々は福島とは言いません、聞かれれば「会津です」と答えます。特に若松城下は、戊辰戦争の恨みがまだ残っています。多分日本全国で「薩長」という言葉が恨みをこめていまだに使われているのはここだけでしょう。幕末の京都での恨みをここではらそうとした「薩長」官軍により手ひどい仕打ちを受けました。「うちの曽祖父が戦って死んだ、薩長はひどかった、特に長州は」 なんてことが昨日のことのように語られます。しばらく前に萩市と歴史姉妹都市にという件が市議会に出されたけれど否決されました。少年兵の「白虎隊」の悲劇もそのまま伝えられています。なぜかこちらの小中学生の修学旅行は会津へ行くことが多く、みんな「白虎隊」のお墓参りをして木刀を買ってきます。

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2007年8月17日 (金)

奇跡の宿場町、会津、下郷町ーⅡ

 昭和49年(1974)に訪れてから、数年後に幼い長女を連れて再訪したところ、えらいことになっていました、近くの大川でダム建設が本格化し住民が働きだしあるいは補償費などを得て家々の改築が始まっていました。トタン屋根、コンクリートの家、黄色い壁など 「ああ これでこの景観も終わりか」と思いました(まだ残ってる!)。その時の写真は出すにしのびません。  

 しかしそこに情熱家が出現しました、昭和53年(1978)町長に就任した元教師の出現です。その価値を語り、住民の説得、同意を得るために走り回り、伝建地区指定を実現し、元の姿に戻す事業を行いました。かって全国で何千とあった宿場で指定を受けているのは。中仙道の2つ(妻籠と奈良井)とここだけです。30年前の姿とはだいぶ変りきれいになり、住民の方々はみな土産店やそばやになりました。やむを得ない点ではあります。

Img354  昭和49年(1974)9月の大内宿入り口からの写真です。七人の侍が出てきそうです。もんぺ姿の地区の方々が水路でとれた大根を洗ったり束ねていました。

Img356  1998.8.3 なぜか1週間のうちに2度行くことになりました。

 ほぼ同じ位置からです。右手前の家は上のモノクロ写真の右端の家です。左端の家はモノクロ写真の左から2番目の家です。多分9年後の今では少し変わっていると思います。

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2007年8月16日 (木)

奇跡の宿場町、会津、下郷町

 98年の夏、長女と同級生の二人娘を連れて福島県会津地方の下郷町にある大内宿を見てきました。真夏でしたがさわやかな風の吹く日でした。ここは伝建地区(昭和56年指定、現在東北地方では3ヵ所)の指定がなされています。主として会津藩が参勤交代に今市まで使用していた脇街道でしたが明治17年別ルートの新国道開通によりその役割を終えた後は山間に取り残されてきました。1798年以来大火災の記録がなくその頃からのまちなみの姿が残っています。戊辰戦争の激戦地になりながら奇跡のように生き残りました。

 私が初めて訪れたのは昭和49年(1974)の9月、偶然でした。でこぼこの林道のような旧街道を上がっていくと突然小盆地がひらけそこに40軒ほどの化石のように残る町並みを見て驚嘆しました。しかも棄てられた村ではなく人々がきちんと生活していました。この少し前、昭和44年に、ある大学の研究者に見出されて話題に上り、のぞき見的な観光者の侵入や、NHKの番組で触れられたくない部分の報道がありちょっと問題が発生していた頃です。

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 スケッチの中央部の家の上からの昭和49年(19749月の写真です。

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 少し下って同じところからです。右に向かって会津若松城下への旧街道です。

 

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 大内宿の中央部からの今の風景です、中央部の家はモノクロ写真の手前の家です。両側の水路は現役できれいな冷たい水が音をたてて流れています、もとは中央部に1本だった明治19年に両側に改修されました、防火用水の意味もあります。ラムネを冷やしたり野菜を洗ったり使われています。

 着彩はあとで。

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2007年8月15日 (水)

座敷わらしの見送り、岩手県遠野市

岩手県遠野の里には日本のふるさとの原風景があると思います。急峻な北上山地の主峰早池峰山(はやちねさん、1917m)を神と仰ぐ盆地に広がる豊かな風景の中には、おだやかな人々と自然、生き物、そして伝説との関わりが今も続いています。 「遠野物語」 に登場するかっぱや座敷わらし、オシラサマが人々と一緒に暮らしています。お盆には鹿踊り(ししおどり)の列が家々をまわります。

昨日の続きです、9年前の長女との親娘旅行の際のショットです。遠野市街地から外れた道沿いに、この地方の伝統的な民家の曲がり屋の形式を保っているお宅がありました。かなり傷んでいたので今もあるかどうかは確認していませんが、この時は人が住み周りの畑ではネギやマメが作られていました。手前のほうが母屋で、奥のほうが馬屋です。南部駒として名馬の産地であったこの地方では馬は家族の一員でした。ここから「オシラサマ」伝説がうまれます、農家の娘と飼馬が恋におちる少々不気味な伝説ですが遠野では大切な伝承となっています。またこの地方では「座敷わらし(童子)」が生きています。旧家の座敷に影のようにいる赤い着物を着た子供の姿をした物の怪です。悪さをするわけではなくさりげなく居ついています。他の地方にもいるんでしょうか。

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  お盆で帰省した親子が帰る際のおじいさんとの会話です。「じいちゃん、元気でな、また正月には来っからや」、 「んだな、まだあっちさはイカねべから待ってっと、ばあちゃんは行っちまったけんどおらは元気だかんな」、「後ろでおらいの(うちの)わらすも見送ってっからな、この家もおらが元気のうちはなんとかすっからな。おめもまもなく定年だべ、そしたらこっちさ来て百姓すればいいんでねえか、もともとおめも百姓なんだからや」。

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2007年8月14日 (火)

遠野物語の里、岩手県遠野市

 9年前のこの季節に、東京の芝浦工業大学の建築工学科に通っていた2年生の長女と二人で、岩手県の遠野市へ1泊の親娘旅行へ行ったことがありました。ちょうどお盆の真っ盛りで宿が取れなければ帰る覚悟でしたが幸い取れました。鮎師の宿でこ汚い宿でしたが、こんにちわーと二人で入ったらおかみさんが、なんだこの二人はという目つきでした、確かに50男と若い娘の二人組みなんてのはこの田舎では不審者です。そこで娘がきっぱり「親子です、怪しいものではありません!」。泊り客の方々といろんな話ができて面白いひと夜でした。

 遠野は柳田国男の「遠野物語」で有名な山里です。しかし柳田国雄に対してここで収集した民話を語って聞かせた地元の文学青年がいたことはあまり知られていません。その人は佐々木喜善、筆名鏡石(1886-1933)です。 

  柳田国男は「遠野物語」の序文で次のように書いています。「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおり訪ね来たりこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。」。日本民俗学の名著「遠野物語」は、佐々木喜善なくしては成り立ち得なかったとも言えるのです。

 喜善の生家は、現遠野市土淵の丘の傍らに残されています記念館も同地区のふるさと村に建てられています。彼は当時の村一番の秀才として東京に出ましたが志果たさずふるさとに戻り推されて土淵村長までつとめましたが、村内の政争に巻き込まれ辞職しその後仙台で赤貧のうちに亡くなっています。しかしその間に発表した昔話の集大成「聴耳草紙」(昭和6年刊)は、金田一京助をして喜善を日本のグリムと賞賛せしめたのでした。

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 このスケッチは喜善の生家の近くです、水車小屋がありましたが、観光施設ではなく現役施設でした。このあたり市街地から離れて、遠野物語の主役をつとめるかっぱや物の怪がいまでも遊んでいそうです。歩いている娘が長女です、この後この地方をあちこち歩きました。次はこの地方特有の民家建築の「曲がり屋」を紹介します。





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2007年8月13日 (月)

お盆、釣れない釣り師の恨み節

今年もお盆という時期が来ました、ご先祖様が「子孫どもみんな元気かー」と帰って来るのです。また日本民族の大移動です。高速道路はボンクレ族という家族連れドライバーで占拠されています。彼らはバックミラーで後続の状態どころかワゴン車の中でわめく子供たちのせいで前もろくに見ていないでしょう。

 ということで、あちら側に渡ってしまった釣り師の釣れない日の気分を描いてみました。モデルは井伏鱒二文豪と開高健師、いきおい込んで出撃したのにボウズの日に机に向かう文士の気分はこんなものかな。次女に見せたら「怖いよー」でした。星飛雄馬なら紅蓮の炎でしょうがこちらは青い狐火です。

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 「おびただしい疲労と嫌悪がこみあげてきて、よろめきそうになった。魚釣りなんか二度とごめんだ。玩物喪志もいいところだ。竿もリールも人にくれてやる。いや。竿はへしおり、リールは川にたたきこんでやるんだ。くそくらえ」 ”私の釣魚大全” 開高健。

 幸い私はそこまで思いつめる状況にならずに済んでいます。ありがたやありがたや。

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2007年8月12日 (日)

気温30度超の青空の下の酒は

  ちょっと盆休み。

 真夏の青空の下に一番似合う酒はなんだろう、それは「ラム」 でしょう、。サトウキビから作られた強い蒸留酒、ちと甘さがあるワイルドさが持ち味です。代表的なのはキューバの「ハバナクラブ」、熟成年度によりいくつかのランクがありますが、一番ラムらしいのは3年ものでしょう。一緒にジャマイカの別メーカーの23年ものを飲みましたが上品になりすぎ。

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 ラムは英海軍の伝説の英雄ネルソン提督(1758-1805)にまつわる伝説があります。トラファルガー海戦(1805,10.21)で戦死したネルソンの遺体を海軍御用のラムの入った樽に漬けて英国まで運んだ、しかし国に着くまでにその樽の中のラムは水兵たちがあやかろうと飲んでしまった。その前の海戦で片目、片腕を失いながら司令長官としてナポレオンとの欧州覇権をかけてトラファルガー海戦に臨み、スペインの無敵艦隊とフランス海軍の連合軍を33対27隻の劣勢をはね返し自らは小銃弾(それほどの接近戦!)で戦死しながらも完勝に導いた将軍で、ロンドンの最中心部のトラファルガー広場には銅像がたっています。パリやローマの広場に比べて地味な広場ですが英国海軍の象徴的な場所です。このあたりから英国海軍が世界最強となり、第2次大戦の際にはその名声におびえて量的に圧倒的だったイタリア海軍が戦わずして逃げてしまったとのことです。その伝統は近年のフォークランド紛争の際にも発揮されていました。軍事的に見ると陸軍も含めて英軍を敵に回すと怖いよー、しつこいし、なにせ何かあると戦場に皇太子が先頭きって飛んでくる国ですから。テロ対策を見てもその情報収集力はすごい。彼らは敗戦を知りません。

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2007年8月11日 (土)

痛っ!

 8月5日、暑さを避けて宮城県の鳴瀬川河口の日陰で何が釣れるか分からない夕涼みのちょい投げ釣りをしていました。1,5号の磯竿に4号の重りをつけてひょいと投げるとけっこう飛んでいきます。ハゼ君が釣れましたが、その合間に「おお、いい引き!」 あげてみると「大きなハゼだな、でもなんとなく平べったいな」 ということでつかんで針を外そうとしたらチクリと刺しよる。ありゃ痛いな、軍手をはめてもう一度、やっぱりチクリとくる、ぶらさげて針を外したら跳んで逃げました。なんだこれはと思って図鑑で見たらコチでした。始めて釣りました。マゴチばさみというステンレスのパンはさみみたいなのを釣具店で売っている意味が分かりました。

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 実はカレイとアイナメ、ハゼ以外は魚の特徴をよく知らない海釣り初心者です。道具だけはくさるほどあるんですが。

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2007年8月 9日 (木)

こんな孫がいたらいいな、宮城県雄勝町

 今日も夏だっ!という感じで暑さに弱い北国の人間は参ったな。今日の仕事は海の近くで午後2時過ぎには終わる予定だったので、「えへ、よしよし」と車に磯竿やらなにやら一式積み込み出かけました。仕事は予定通り「おつかれさまー」だったけれど、暑さに負けて海岸ドライブでおしまい。唯一その気になっていた阿武隈川の河口ではヤーサン集団がテントを張って投げ釣り、こりゃ近づかないほうがお利口さん。

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 先日宮城県の雄勝(おがつ)町の漁港でちょい投げ釣りをしました。広い港に釣り人はちらほら。車を停めて釣りを始めたらいろんな人が寄ってくること。みんな「釣れるすかー」、あげくに駐在さんまでやってきました。「おいおい私は不審者かいな」。結論はみんなひまなんです。「あっちのほうが釣れるよー」という駐在さんのアドバイスで移動すると、6年生くらいの男子二人が遊んでいました。すぐ寄ってきて「なに釣るんですかー」、「いやまーあーだこーだ」と話をしてると、「あっちは定置網があるよ、こっちは前大きいのがつれたよ」、などなど人なつっこくてかわいい子供でした。ごつい竿で遊んでいたので私の1.5号の軽量な竿を使わせたらなかなかの竿さばき、一投目でチビハゼにきちんと合わせをくれていました。絵を見ていただけると分かりますが竿は二人で1本です。これで仲良く半日遊んで、夕方の有線放送の「おかえりー」とともに竿はきちんとロッドケースに入れて背負って自転車に乗って帰っていきました。 こんなめんこい孫がいたらいいなー。

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2007年8月 6日 (月)

盛夏、塩釜港、夫婦の釣りいいな

 あまりに暑いので渓流はちょっとお休み、涼しい海風を受けながらの防波堤釣りに行きました。家から20km隣りの塩釜市の港で日陰に入りながらちょい投げでした。何が釣れるか分からない(気持ちはカレイがつれないかな)、投げたあとスタンドに掛け、椅子に座り竿先の動きを見ながらお茶を飲むという「ゆるーい釣り」 、結局2時間ノーヒットでした。しかしお隣に陣取った高年齢ご夫婦は何本かの竿を二人であやつりひょいひょいと小型のハゼを釣り上げていました。きちんと集中すれば魚も来るのがよく分かりました。とても仲良く楽しんでおられる雰囲気がよく分かり「こういうのもいいなあ」 。わが家では長女がたまに遊んでくれますが、かみさんと一緒の釣りもたまにはいいのでしょうね。

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 松島への観光船が出たり入ったりする賑やかな航路です。船の向かう先は松島です。ガイドのアナウンスが聞こえてきたりします。松島では「奥のほそ道」の芭蕉の俳句とかいって「松島や ああ松島や 松島や」なんてのをあちこちで聞きますが、こんなの彼の作品にはありません。こんな駄作を芭蕉が作るわけがない。

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2007年8月 4日 (土)

宮城 川崎町碁石ーⅡ

 前回の絵の続きです。集落の中ほどに昔の姿を残しているお宅がありました。街村の特徴そのまままに奥行きの深いかたちです。アルミサッシなどに変えられてはいますが昔の姿を彷彿とさせてくれます。

 ここは下水道も整備され水道の水もおいしい町です。この町の国営施設で働いていた15年ほど前には帰宅する際に水道水をポリタンに汲んで帰ったほどです。水源の沢には天然のイワナが生息しています。

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 前面の植え込みはカイズカイブキです、昭40年代に流行しましたが果樹の害虫の宿主になるため今は使われなくなりました。

 さてこれから盛夏のスケッチの題材を探しに出かけます。

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2007年8月 2日 (木)

古街道のまち、宮城県川崎町碁石

 今日は梅雨明けの青空のもと珍しく33℃まで上がりました先月30日の気温20℃がなつかしい!休みでしたが暑すぎで釣りに出るどころではありませんでしたのでスケッチを仕上げました。まだ梅雨の明けない時のロケハンです。

 現仙台市と山形市を奥羽山脈の笹谷峠(906m)を越えて往来していた古道があります(一部現国道286号)。平安時代の延喜式(901919)にも登場する古道です。当初は軍用道で江戸期は参勤交代の街道ではなく交易や出羽三山詣での道でした。

宮城県側は2本のルートが現在の川崎町で合流します。そのうち現仙台市太白区長町を基点としているルートの西15kmほどのところに川崎町碁石「ごいし」という集落があります。五つの奇石があることからついた名前とされています。碁石川という川を挟んで街村の姿を残す地区と農家が点在する地区とに分かれます。しばらくぶりで街村の姿を残す集落を歩いて見ました。家々はそれぞれに建て替えが進んでいますがかたちと大きさがそろっています、屋根瓦の色違いは気になりませんでした。20年ほど前まではこの通りが国道286号でしたがバイパス完成で今は静かなたたずまいを見せています。仙台から15kmですが起伏の多いルートなので多分サブの宿場の機能も持っていたのでしょう。宿駅の機能がはっきりしているのはここから7kmほど先、628日にUPしたスケッチに見える川崎町中心部です。

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 川崎町はそばを名物にしていて、ここにも農家レストラン風のそば屋さんが店開きしていました。

次は昔のかたちを残している1軒のお宅を紹介します。

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