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2014年7月30日 (水)

おくのほそ道 山刀伐峠越え  山形県最上町

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 元禄2年5月17日(旧暦)、一夜の宿を提供してくれ加えて護衛の若者まで手配してくれた有路家を出立しおくのほそ道の中で命がけ、最大の難所と書かれている山刀伐(なたぎり)峠越えです。とはいっても実際の山刀伐峠は盗賊などの出没は別としてそれほどの高さ(470m)や険しさではありません。
 芭蕉はここを越えれば太平洋側から日本海側へ舞台が移る切り替えのヤマ場として紀行文を仕上げたという研究者の推論があります。たぶんそうでしょう。


 Dsc_5914 現在も街道跡はおくのほそ道旧蹟のうちでもよく残されていて往時をしのぶことができます。

 用紙は小さいSMで、絵具はW&Nです。

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コメント

こんにちは哲です。SMとは、小さい画面はまた別な趣があります。木の葉大変ですね、根気の要る仕事です。盛岡への旧道に塩の道が残っています。旧制中学の父は山越えをしたと聞いたことがあります。こんな道です。
 素朴な疑問ですが、護衛の服装が出発時と変わっているようですが、はて。なんとなく前の服装がマッチしている感じです。帯刀はあったのでしょうか、すみません教えてください。
 様々な考察が存在すると思います。

投稿: 哲 | 2014年7月30日 (水) 10時52分

哲さん、こんにちは。
 江戸時代の街道は大概こんなものでした、日本海側の大名たちが使った幹線羽州街道といえども峠越えは人の足でしか通れないものでした。明治になって幹線を「荷車が通れるようにする」というのは国の大プロジェクトでした。
 護衛の服装はまあ適当に描きました。おくのそ道本文中に「屈強の若者、反脇差を横たえ樫の杖を携えて先に立ちて行く」という記述がありますのでそのようにしました。当時としては高齢の芭蕉の荷物も背負ったことでしょう。

投稿: 杜しま | 2014年7月30日 (水) 20時07分

ありがとうございました。勉強になりました。
 刃物の話です。マキリご存知ですか、宮古の水産科学館で、子どもたちが魚の餌を自分たちで作って与えるイベントをやっていました。使っていたのがマキリ包丁。昔の漁師の喧嘩には付き物でした。少し扱いづらい刃物ですが、よく切れます。扱い方も教わったのでしょう、うまくこなしていました。さすが宮古、いいなと思いました。昨日のTVニュースでした。

投稿: 哲 | 2014年7月30日 (水) 20時55分

哲さん、ご返信ありがとうございます。
 マキリは阿仁マタギの狩猟刃物として知っていましたが南部の海地域にもあるとは知りませんでした。どんな形かは知りませんが知識がふえました。
 今日画材店のベテラン店員さんと話をしたら、この秋キャンソンはじめいろいろなメーカーで新しい紙や改良紙を発売するそうですが在庫をおかなければならない小売店は大変だとのことでした。こちらも買い込めば使い切れなくて酸化したりドーサが落ちたりしますから慎重にいかなければなりません。
 

投稿: 杜しま | 2014年7月30日 (水) 23時35分

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