文化・芸術

2009年1月30日 (金)

フランク・ロイド・ライトのスタディ集  わが出発点

26  アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトのスタデイ、エスキース集(洋書)で、40ドルの値段がついています。

ル・コルビジェ、ミース、ファン・デル・ローエとあわせて3大建築家と呼ばれることもある巨匠です。日本での作品は少なく4つ残っていますがそのうちのひとつは明治村に正面玄関のみが保存されている帝国ホテルです。

 今から30数年前、私がまだ20代後半で市役所勤めの頃に出入りの本屋の販売員が困った顔をして相談に来ました。当時はよく「見はからい」という売り方があり、現物を持ってこさせてから買う買わないを決める方法です。建築課の同僚がそうして結果いらないとなったんですが、これは洋書のため返本がきかない。なんとか買ってもらえないかということでした。中をひと目みてこれは買わずばならないと感じて、「いいよところでいくら」、「ありがとうございます助かりました原価でいいです8000円です」。当時は1ドルが200円くらいだった時代です。

 「あのー、給料の1/3なんで、月賦にしてよ」 ということで手に入れました。

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 偶然手に入れた本ですが、中のライトの描いた多数の透視図の美しさに惹かれました、建築家は自分の建物が目立てばいいという思想の人が多く周りの自然や樹木はいい加減に扱うことが普通です。しかしライトの絵には樹木がきちんと掻き分けられ、周囲との調和を重要視していることが表現されていました。

 で、何枚かを模写して練習をしペン仕上げで描いていました。そのスケッチブックを本棚の整理中に見つけました、若い時期の記録です。なにやら昔を思い出しながら見ていました。その練習がいま基礎になっています。

模写をしたもの2例です。

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 下はその後、雑誌や本を見ながら自分なりに描いたものです、35年前のわが原点です。

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余計な線が沢山ありますねえ。

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2008年7月30日 (水)

五月雨を集めて涼し最上川   山形 大石田町

 みちのくも間もなく遅い夏がきます、その前に最上川の風景を一枚UPします。

芭蕉は「おくのほそ道」では7月なかば(旧暦5月末)山寺で 「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の元句を詠んでから再び北上し大石田(おおいしだ)の船問屋高野一栄、大庄屋高桑川水のところに寄り3泊し歌仙の句会を開いています。ここで詠まれたのが「五月雨を集めて涼し最上川 」ですが後で直されます。

尾花沢の旦那衆といい当時の最上川沿いの日本海の交易による文化の高さには恐れ入ります、酒田港を入り口とした上方との交流が盛んでした。

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 この絵の川は最上川です、右手が上流で、すこし先に大石田の町があります。このあたりは最上ではなく旧新庄藩の領分になります。

 かっては最上川舟運の基地としておおいに栄えたところです。この風景は小坂という峠からの眺めで風景写真やスケッチのポイントとして著名です。

 しばらく前の釣行の際に車の中から見て「おっとこれはすごい」と思い撮影していた写真から起こしましたが地味な絵になりました。

 「おくのほそ道」ではここから船に乗り酒田へ下ったように書かれていますが、実際にはここから(717日)陸路でひとやま越えて新庄(しんじょう)を訪れそこから乗船しています。その舟の中でこの句を改め「五月雨を集めて早し最上川」としています。このあたりの最上川は屈曲が激しく難所も多いので避けたのかもしれません。

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用紙サイズはF8です。

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2008年1月10日 (木)

私の釣魚大全、開高健 みつけた

立ち寄った古書店で、探していた開高健師が釣りに目覚めるきっかけになった「完本 私の釣魚大全、1976、新装版」をみつけました。原本は1969年です。合本版や文庫は持っていましたが、Hardy rother`s cataloguesからの銅版画の挿絵の入ったのはありませんでした。字が大きくて助かります。

全てが名文の連続ですが、中でもうーむと言わせるのは、青森の八甲田山麓のグダリ沼でのイワナ釣りと旧陸軍の200名の兵士が凍死した遭難事件を織り交ぜて書いた「高原の鬼哭」 と井伏鱒二老師との釣行を書いた「井伏鱒二氏が鱒を釣る」です。特に後者の、70歳を過ぎた老師が、仲間が昼寝をしている隙に抜け駆けをたくらみ、あげく湖に落ちて濡れねずみになる話は釣り師の妄執を表現して余りあります。

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2007年9月11日 (火)

文豪の釣談、幸田露伴、「幻談」

  残暑の怪談をひとつ。今日はちと気分がよくないのでこんな絵を描いてしまいました。

文豪の釣談は開高健を筆頭に井伏鱒二、明治の幸田露伴など、文章のプロが自分の趣味を語る際の表現力にはめまいを覚えるほどです。幸田露伴の作品の一つに「幻談」があります。

 江戸のある旗本 「暮らしに困るわけじゃなく、奢りもいたさず、偏屈でもなく、ものはよく分かる、男も好し、誰が目にも好い人、できすぎて出る釘打たれて無役御普請組」 なんて人が釣り三昧。(私もかくありたし) いつもの船頭を雇い黒鯛釣りに繰り出したがトンと当たりもなく最後の大物には竿を折られるという最低の日にあたった。さあ船頭立場がない、日も暮れようというまで粘り、葦の茂る穴場に。そこに水面から突き出した竿が1本、船を寄せて竿を取ろうとしたら白足袋の土佐衛門が竿を握ってついていた。船頭とふたり、無理やりもぎとってよく見れば二つとない名竿、侍、きれいにして翌日再び同じところへ漕ぎ出した、同じ時刻闇の中で土佐衛門が「竿返せー」とまた竿を振る。侍、驚き恐れ南無阿弥陀仏を唱え竿を海へ戻した。

 ブログの中に大切なバンブーロッドを盗まれた方の困ったお話がありました。しかし盗んだロッドでまともな釣りなんぞできるわけがありません。崖から落ちるか水没するかでしょう。和竿には「怨み竿」という釣り人を死に追い込む怖い話もあります。

 今日は妙な話ですみません。

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2007年8月14日 (火)

遠野物語の里、岩手県遠野市

 9年前のこの季節に、東京の芝浦工業大学の建築工学科に通っていた2年生の長女と二人で、岩手県の遠野市へ1泊の親娘旅行へ行ったことがありました。ちょうどお盆の真っ盛りで宿が取れなければ帰る覚悟でしたが幸い取れました。鮎師の宿でこ汚い宿でしたが、こんにちわーと二人で入ったらおかみさんが、なんだこの二人はという目つきでした、確かに50男と若い娘の二人組みなんてのはこの田舎では不審者です。そこで娘がきっぱり「親子です、怪しいものではありません!」。泊り客の方々といろんな話ができて面白いひと夜でした。

 遠野は柳田国男の「遠野物語」で有名な山里です。しかし柳田国雄に対してここで収集した民話を語って聞かせた地元の文学青年がいたことはあまり知られていません。その人は佐々木喜善、筆名鏡石(1886-1933)です。 

  柳田国男は「遠野物語」の序文で次のように書いています。「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおり訪ね来たりこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。」。日本民俗学の名著「遠野物語」は、佐々木喜善なくしては成り立ち得なかったとも言えるのです。

 喜善の生家は、現遠野市土淵の丘の傍らに残されています記念館も同地区のふるさと村に建てられています。彼は当時の村一番の秀才として東京に出ましたが志果たさずふるさとに戻り推されて土淵村長までつとめましたが、村内の政争に巻き込まれ辞職しその後仙台で赤貧のうちに亡くなっています。しかしその間に発表した昔話の集大成「聴耳草紙」(昭和6年刊)は、金田一京助をして喜善を日本のグリムと賞賛せしめたのでした。

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 このスケッチは喜善の生家の近くです、水車小屋がありましたが、観光施設ではなく現役施設でした。このあたり市街地から離れて、遠野物語の主役をつとめるかっぱや物の怪がいまでも遊んでいそうです。歩いている娘が長女です、この後この地方をあちこち歩きました。次はこの地方特有の民家建築の「曲がり屋」を紹介します。





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2007年3月28日 (水)

いい本を手に入れた「タウトの撮ったニッポン」

 Dsc_0006_2 1933年から1936年まで日本で暮らし、京都から東をあちこち歩いて建築家の目で日本文化を評価したドイツ人建築家ブルーノ・タウト(18801938)の新刊が出ました。「タウトが撮ったニッポン」です。彼が当時ベス単と呼ばれた小型カメラで撮影し、きちんと整理していたアルバムから日記形式でまとめられています。仙台にも縁があり、当時の商工省仙台工芸指導所(後の産業工芸指導所)の嘱託として来ていました。ドイツのバウハウスの創設者、ワルター・グロピウスの仲間fでもあり工芸デザインにも優れていたようです。建築作品は残されていませんが著書「日本美の再発見」(1939年から今も現役本、私が持ってるのは1965年版、学生時代のもの)により伊勢神宮や桂離宮の素晴らしさを紹介しました。バウハウスの機能を優先する思想から日本の建築を評していて、日光の東照宮へは最悪の評価をしています。

 写真は上手とは言えず、ピントも甘いですが伝えたいことはしつかり伝わります。変ったものとして、1934年10月の渋谷駅で、忠犬ハチ公(秋田県大館市出身)が寝ている写真があります。

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 3年半の滞日のうち2年間ほどは、群馬県高崎市の少林山達磨寺内の少住宅に住み、そのうち飽きたのか36年10月トルコ政府の招きで離日し、2年後の1938年12月イスタンブールで客死しました。

  達磨寺にある石碑の拓本を知人から貰って額装し25年ほど客間にかけてあります。「ICH LIEBE DIE JAPANISHE KULTUR  348.24 BruunoTaut」と書かれています。

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